
麻布十番「たそがれ」で、記憶に残る食体験。
ビストロ レストラン たそがれ 麻布十番
「名店仕込みの技術で日常食材を非日常に昇華する、カウンター8席のミシュラン掲載ビストロ。」
Instagramのフィードをスクロールしていた手が、思わず止まった。
「ニシンのレアチーズケーキ」。
その料理名を見た瞬間、頭の中でいくつもの疑問符が弾けました。ニシンを、レアチーズケーキに?どういう構造で、どんな味として出てくるのか。想像しようとするのだが、うまく像を結ばない。その「わからなさ」が、むしろ強烈な引力になりました。これが「ビストロ レストラン たそがれ」との出会いです。

黒板の前で、すでに始まっている
麻布十番の駅から10分ほど歩いた静かな通りに、その店はあります。カウンター8席のみ。扉を開けると双川シェフが一人、静かに包丁を動かしています。落ち着いた空気の中、マダムが笑顔で迎えてくれます。

席に着いてすぐ、目が黒板に吸い寄せられます。手書きで並ぶ料理名を眺める時間が、すでに楽しい。「サヨリとたんぽぽ」「子持ちやりいか サフランのみつ煮」「のれそれのスクランブルエッグ」。どれも耳馴染みがあるようで、組み合わせがどこかはぐらかすような自由さを持っています。「頼む前からこれほど想像力を刺激される黒板は、そう多くない」と正直に思いました。ミシュランガイド東京2025・2026のセレクテッドに選ばれたこの店が、これからどれだけ予約困難になっていくかは、座った瞬間から予感できます。


一皿ごとに、手が止まる
「サヨリとたんぽぽ」が運ばれてきた瞬間、箸を持ったまましばらく皿を眺めました。透明感のあるサヨリの身に、たんぽぽのほろ苦さがそっと添えられている。口に入れると、繊細な甘みと春の香りが静かに広がって、ゆっくりと消えていく。奇をてらった構成ではないのに、食べた後に記憶の中に居座る一皿です。

再訪時の「菜の花、カブ、苺、モッツァレラチーズ」も同じ性質を持っていました。菜の花のほろ苦さ、カブの瑞々しさ、苺の甘酸っぱさが柔らかに溶け合い、モッツァレラがそれをひとつに束ねる。春という季節を分解して皿の上に並べたような一品でした。

「子持ちやりいか サフランのみつ煮」は黄金色に輝く皿として現れました。やりいかのぷりっとした弾力と旨味を、サフランの甘く芳醇な香りが包み込む。和と洋の境界線が、この皿の前ではもはや意味を持ちません。

「のれそれのスクランブルエッグ」。アナゴの稚魚という希少な食材を使いながら、皿が訴えるのは「優しさ」だけです。のれそれの繊細な旨味がふんわりとした卵に溶け込み、口当たりの柔らかさが静かに広がっていく。高級食材で圧倒するのではなく、素材の個性を損なわないまま料理に着地させる技術。これが双川シェフの基本姿勢です。

ビスクで、完全にやられた
正直に言います。ビスクに大きな期待は持っていませんでした。甲殻類は好きで、濃厚な旨味そのものは好みなのですが、どこかで「飲み進めるうちにエグみと塩気が重なってくる」という経験を繰り返してきました。
スプーンを口に運んだ瞬間、今までの記憶が消えました。
エビの旨みが余すところなく引き出された濃厚なスープ。滑らかな口当たりと奥深いコク。塩気は抑えられているのに旨味は強く、最後の一口まで疲れがこない。スプーンを置くたびに「もう一口」と手が動く。北島亭など名門フレンチで積み上げてきた双川シェフの経験が、このスープ一杯に凝縮されていると感じました。シンプルな器の中に、これだけの密度がある。

火入れの精度が、すべてを語る
「パテドカンパーニュ」はクラシックな一皿ですが、噛むほどに旨みの層が重なってきます。豚肉の旨みにレバーのコクが積み重なり、スパイスが余韻を引き締める。「基本を極めた先に究極がある」という言葉が頭を横切りました。

「牡蠣のムニエルとハッシュドポテト」は、香ばしく焼かれた表面にナイフを入れると濃厚なエキスが溢れ出す。それをハッシュドポテトが受け止める。この組み合わせに無駄が一切ありません。

「カキフライ」も然り。表面のカリッとした衣、中の牡蠣のふっくらとした食感。このバランスを出せるのは、火入れの精度が別格だからです。さらに自家製タルタルが、味変として機能する。今までのタルタルのイメージを覆す独創性が溢れます。

「とり手羽スモーク」では、瞬間スモークの香りと肉の旨みが合わさり、鶏ハムのようにしっとりとジューシーな仕上がり。添えられたゴーヤのピクルスと自家製きゅうりのQちゃんが、またおいしい。副菜一つにも手が抜かれていない。

「若とり もも肉のソテー」は、表面パリッと中ふっくらという教科書通りの仕上がりでありながら、コブサラダ仕立てのソースという発想が斬新で、しかしよく合う。

「うさぎのもも肉 香草焼き」は香草の香りがやさしく寄り添い、ジビエ初心者でも入りやすい優しい味わいに着地させています。

「フォアグラのテリーヌ いちじくのジャムとデニッシュ」は濃厚さ・甘さ・香ばしさが層を成す贅沢な組み合わせ。まったく脂っこさがなく、そしてポーションコントロールが完璧で、「もう一つ食べたい」という気持ちを次の皿への期待として残してくれます。

「えび、にんにく、とうがらし、パプリカ、トマト煮」は、馴染みある味の構成をフレンチの手つきで昇華させた一皿。メインのあとにもう一皿!とまで食べたくなる、とはこのことです。

そして、この店の名物として初訪でも再訪でも必ず頼んでしまうのが「カツサンド」です。香ばしくトーストされたパン、絶妙な火入れでジューシーに仕上がった分厚いカツ。これは専門店と比べてどうか、という話ではなく、「たそがれオリジナルのおいしいカツサンド」と完成度でした。シンプルな料理ほど実力が出る、という言葉を体現した秀逸な一品です。


カウンター越しに伝わるもの
この店をワインバーとして使うこともできます。厳選されたワインが揃い、料理との相性も考えられている。ワインバーには美味しいワインがあっても料理が伴わないことが多いですが、ここでは両方が揃っている。その両立が、夜を豊かにします。
