黒板の前で迷う幸福
花梨と小虎
「夫婦が営む三鷹台の小さな創作中華で、季節素材を使った一口サイズの料理を多品楽しめる一軒。」
三鷹台に、こういう店があったのか。駅から少し歩いて、ふと気づいたら着いていた。「花梨と小虎」という名前からしてすでに只者ではない感じがする(などといいつつ実は夫妻が可愛がる飼い猫の名前であることを知ったのはまた後日の話)。夫婦ふたりで切り盛りする小さな中華料理屋で、席数はそれほど多くない。厨房と客席の距離が近く、料理が仕上がる気配がそのまま伝わってくる。
黒板の文字が多すぎて困った
メニューは壁の黒板にびっしり書かれている。読み始めて「これは時間がかかるぞ」と思ったが、それだけ素材と料理のバリエーションがあるということで、つまり季節ごとに店の顔が変わるということだ。固定メニューがある一方で、黒板には旬の素材を使った料理がその日その日で並ぶ。カレー屋をやっていると、メニューの絞り込みが信条になりがちなのだが、ここは逆の美学で動いている。品数で勝負するのではなく、季節の素材でその時しかない一皿を出し続けるということで、黒板の文字の多さはその蓄積の結果なのだと合点がいった。
一皿の量が控えめに作られていて、何品も頼みやすい設計になっている。これは意識してやっていることだろう。ひとつの料理でお腹を満たすのではなく、いくつもの料理を少量ずつ体に通していく食事の仕方を促している。インド料理でいえばターリーの思想に近いが、こちらはより自由度が高く、食べ手が自分でコースを組み立てていく感覚がある。
魚の春巻きと、葱山椒ソースの仕事
前菜の盛り合わせを頼まずにいられるような理性は、この店では最初の五分で崩れる。運ばれてきた皿には数種類の料理が小さくまとめられていて、それぞれが独立した完成度を持っている。細工の丁寧さというよりは、素材の扱いに無駄がないという印象で、中華の技法をちゃんと使いながら、奇をてらわない。
魚を使った春巻きは、来るたびに違う顔をしているらしいが、この日のそれは皮のパリパリ感と中の魚の火入れが好対照になっていた。魚に火を入れすぎると身がぱさつくが、ここの春巻きは中心部にわずかな湿り気を残した状態で揚げてあって、噛んだ瞬間に素材が戻ってくる。カレーで魚を使うとき、加熱のさじ加減で仕上がりが大きく変わることは身に染みてわかっているので、この火入れの精度には箸を持ったまましばらく動けなかった。
葱山椒ソースはこの店で販売もしているというから、それなりの自信作なのだろうと思って頼んだお刺身が、予想の外側にあった。刺身にかけるソースというと添えもの扱いになりがちだが、ここでは葱の青さと山椒の刺激が魚の旨みと互いを引き立てる関係になっていて、ソースが料理の核にいる。辛味でごまかすのではなく、香りと甘みのバランスで素材を持ち上げている。スパイスの仕事をしている立場から見て、これは相当に計算された配合だと思う。自分の店で扱うスパイスのブレンドとは素材も手法も違うが、「何かと何かを合わせてひとつの味を作る」という行為の根っこは同じで、ここのソースはその根っこが深い。
果実酒が最後の一手だった
自家製の果実酒が何種類かあって、料理と合わせながら飲む。甘さが前に出すぎず、果実の発酵した複雑さがある。食中酒としてきちんと設計されているのがわかる。インド料理の店では酒の選択肢が限られることも多く、こういう手作りの酒が料理と並走している状況には素直にうらやましいと思った。
夫婦で作る店というのは、料理の方向性が一本筋として通りやすい。流行に振り回されず、自分たちが正しいと思うものをその季節に出し続ける。「花梨と小虎」はその形が清潔に機能している店だった。小さい器に盛られた料理が次々とテーブルに来るたびに、この夫婦が何を大事にしているかが少しずつ見えてきた。
店舗情報
花梨と小虎
東京都三鷹市〒181-0001 東京都三鷹市井の頭1丁目31−16
