
引き算の果てにある余韻
鮨 美吟
「赤酢2種ブレンドのシャリと大将一人による丁寧な仕込みの一品料理が光る、千代田区の実力派鮨店。」
たけちゃん
東京・千代田区に、3度訪れてもなお足を向けたくなる鮨屋がある。鮨 美吟。この店に初めて入ったとき、「ここにまた来る」とわかった。2度目もそう感じた。3度目の今も、変わらなかった。
近年、都内には旅行者を意識した高級鮨店が増え続けている。どこも仕事は丁寧で、ネタは確かだ。けれどどこに行けばよいのか、誰かに自信をもって紹介できる一軒はどこなのか、そう考えると答えが出なかった。美吟に3度通って、ようやく迷いが消えた。
一品料理に宿る、引き算の美学
握りが始まる前に、一品料理が供される。この段取りはほかの鮨店にもあるが、美吟のそれは別格だ。すべて大将お一人による仕込みで、何時間かかろうとも手間を省かない姿勢が、皿の上にそのまま現れている。
味付けが、とりわけ印象に残る。「料理は引き算」という言葉があるが、美吟の一品料理はまさしくその言葉通りだ。調味料の存在を感じさせない。素材が持つ本来の甘みや旨みが、ゆっくりと前に出てくる。塩気も酸も、あくまで輪郭を整えるための仕事をしているにすぎない。むやみに何かを足すことをしない。その判断の積み重ねが、皿全体の静けさをつくっている。
厨房に立つのは大将一人だ。ワンオペという言葉でくくってしまうのは惜しいほど、その仕事は密度が高い。満席の日は時間に余裕を見ておいたほうがいい。急いでいる日には向かない。けれど、時間をかけて食べてこそ、この店の奥行きがわかる。
赤酢のシャリと、漬けの赤身が持つ力
シャリには2種類の赤酢がブレンドされている。配合については語られないが、その酢の色と香りはカウンター越しにはっきりと感じ取れる。赤酢特有の深みと、わずかな甘みが土台にある。この設計がとりわけ際立つのは、マグロを口にしたときだ。
なかでも赤身の漬けは、一度食べると比較の基準が変わってしまう一貫だった。特製の出汁醤油に、短い時間だけ漬けられている。長く漬けすぎず、しかし芯までしっかりと味が入っている。その加減の見極めが、食感に出ている。むっちりとした、と表現するしかない弾力。歯が入ると繊維が整然と応える。
噛んでいると、マグロ本来の繊細な酸味と鉄分の香りがゆっくりとほぐれ、やがて赤酢のシャリと溶け合っていく。旨みが一気にやってくるのではなく、波のように重なって押し寄せてくる感覚だ。箸を持ったまま、しばらく動けなかった。
一貫一貫の重さ、玉子焼きまで
握りが進むにつれて、口が慣れていく。慣れたと思った瞬間に、また別の驚きが来る。この繰り返しが最後まで続く。見た目はシンプルだ。鮨だから当然そうなのだが、その簡素な形の中に、どれだけの判断と手仕事が詰まっているのかと考えると、一貫一貫の重さが変わる。
コースの締めに出る玉子焼きまで、気を緩める場面がない。むしろ終わりに近づくほど、その仕事の一貫性がより鮮明に見えてくる。玉子焼きは、その店の仕込みの姿勢が正直に出る。美吟の玉子は、最初の一品料理と同じ精度で作られている。
大将との時間が、食事の空気をつくる
大将は少しおちゃめさもあるが、穏やかな方だ。押しつけがましさがなく、それでいてカウンター越しにきちんとした空気が流れている。一人で訪れても自然にくつろげる。その空気は意図してつくられているというより、大将の人柄から自然ににじみ出てくるものだと感じた。
外食の機会が多い方こそ、一度足を運んでみてほしい。技術の話でも、食材の話でもなく、「こういう仕事をしている人がいる」という事実を確認するために。それだけで、訪れる価値がある。そして、おそらく2度目の予約を入れることになる。
店舗情報
鮨 美吟
東京都千代田区日本、〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1丁目16−1 JINBOCHO WORLD BUILDING
